CAKEHASHI / HISTORY

震災の年に、台湾へ渡りました。

母との最後の家族旅行が、台湾でした。その国から、世界でいちばん多い義援金が届いた年に、私は200万円を持って台北へ渡りました。うまくいかなかったことのほうが、ずっと多い道のりです。途中で妻を見送ったことも、省かずに残しています。何をどう決めてきたのかを、順に書いていきます。

00

母が遺したもの

台湾に渡るより、ずっと前のこと。

なぜ台湾なのか、とよく聞かれます。震災があったからです、と答えると、たいてい納得してもらえます。ただ、本当の始まりはその10年以上前にありました。

  1. 19782月19日

    生まれる

    京都府で育つ。

    未舗装の坂道で、三輪車に乗って笑う幼い代表。後ろに姉が立っている
    幼い時の私と姉
  2. 20代前半

    母が病に倒れる

    大学生活の気分が抜けないまま、夢も希望も持たずに日々をやり過ごしていた頃だった。何ひとつ親孝行できていない自分への後悔と、押し寄せる無力感。

  3. 母との最後の家族旅行が、台湾だった

    病状が末期と知らされ、「今しかない」と向かった先が台湾。複雑な心境のなかで訪れた異国は、どこか懐かしく、温かかった。この旅が、台湾との物語の始まりだった。

  4. 200412月11日

    メディアウェイブを創業26歳

    個人事業として。母の命日が、そのまま創業日になった。「生きることに、夢や希望を持つ」——母が遺したのは、それだった。

  5. 2007〜2008

    商工会議所で、ウェブ集客とFacebookのセミナーを始める

    事業のかたわら、関西を中心に講演を始める。Facebookの世界的な流行に可能性を感じ、セミナーも開いた。この頃からたびたび東アジアを単身で視察するようになる。

  6. 201012月9日

    株式会社メディアウェイブを設立

    大阪で、個人事業から法人へ。

01

台湾へ

震災の年に、単身で渡った。

いま思い返すと、無謀でした。準備が足りていたかというと、足りていませんでした。ただ、突き動かされる気持ちのほうが強かった。そんな瞬間が、人生には何度かあるのだと思います。

  1. 20113月11日

    東日本大震災33歳

    台湾から、世界で最も多額の義援金が届いた。その事実に深く心を打たれる。母の最後の旅行先が、その国だった。

  2. ほぼ毎月、台湾へ通う

    衝動に駆られるように台湾へ足を運び、現地でいろいろな人と話した。震災からわずか半年後には、台湾に法人を作ると決めていた。

  3. 単身で台北へ。持って行ったのは200万円

    「ダメだったら何か月で帰る」とは決めなかった。絶対にやってやると思いながら、それでも残高が減っていく感覚は、いまも鮮明に残っている。

  4. 最初の3か月は、ゲストハウスで

    家が見つかるまでの3か月、シャワー共同の宿に泊まった。1泊1500円。語学教室に通いながら、会社設立の準備を進める日々。いろいろな国の人がいて、怖さより興味のほうが強かった。食べる時間と寝る時間以外は、仕事をしていた。

02

会社を建てる

コネも知り合いもいない土地で。

コネも知り合いもいない土地で会社を建てるというのは、ゼロからのスタートです。何を売るかは決まっていました。それでも最初の2年は、苦難の日々が続きました。

  1. 20122月

    台湾法人を設立

    媒迪亞維博有限公司(CAKEHASHI)。ゼロスタート、ひとりから始まった船出だった。

  2. 台北世界貿易センタービルへ

    会社の規模から見て、家賃は決して安くなかった。それでもここを選んだのは、台湾市場を狙う会社が世界中から集まる場所だったから。「この国のカケハシとなる」のは、この場所からなんだと思った。

    レンガ壁のオフィスで、6人が並んで記念撮影をしている
    移転パーティーにて。
  3. 2013

    アジア経営者連合会 台湾支局を設立

    台湾副支局長に就任。同年、台湾のマーケティング専門誌「brain」に掲載される。

  4. 夏頃

    行列のラーメン店で見た光景

    台北に、日本で人気のラーメン店の一号店ができた。毎日すごい行列で、私も台湾人の友人と並んだ。席に着き、出てきた一杯は日本とほぼ同じ味だった。うまい。ところが店内を見渡すと、3〜4組の台湾人が、ラーメンに水を足してスープを薄めていた。驚いた。同席した台湾の友人も、それを当たり前のこととして見ていた。

    親日とはいえ、台湾には台湾の舌がある。その国に応じてローカライズしないと受け入れてもらえないことを身をもって学びました。
  5. 仲間が、ひとりずつ増えていく

    ひとりで始めた台湾法人は、やはり大変だった。それでも少し経った頃から仲間がひとり、またひとりと集まりはじめ、いまのメンバーにつながっている。

    レンガ壁の台北のオフィスで、机に向かう3人が笑いながら話している
    2015年の台北オフィス。
03

声をかけてもらえるようになる

日本と台湾、双方のメディアから声がかかりはじめた。

依頼はいつも「現地で見てきたことを話してほしい」というもので、そのたびに背筋が伸びる思いでした。この章には、会社としていちばん大きな判断もひとつ入っています。

  1. 2014

    日経MJ、商業週刊に掲載

    日本の日経MJ(日本経済新聞社)と、台湾最大手のビジネス誌「商業週刊(Business Weekly)」に相次いで掲載。

  2. 2015

    一部外注をやめ、社内で作りきる体制へ

    台湾企業との外注連携で、想定外のことがいくつか起きた。それ以降、業務のほとんどを内製に切り替えた。選択と集中の判断だった。いま「調べる人と、実行する人と、確かめる人が同じ」でいられるのは、このときの判断による。

    台北の古い日本家屋の前に、6人のメンバーが並んで立っている
    内製に切り替えたころのメンバー。台北オフィスや台北101から徒歩5分・四四南村にて。
  3. 2017

    2ndオフィスを設立

    手狭になり、2つ目の拠点を構えた。人を集めて話せる場所がほしかった。

    CAKEHASHIのロゴが入った白い壁と、ソファの並ぶラウンジペンダントライトの下に、色の違う椅子が並ぶカウンター席
    2ndオフィス。
  4. 2018

    様々なセミナーに呼んでいただくように

    講師のひとりとして招かれ、講師陣によるパネルディスカッションに加わった。人前で話すこと自体は2007年から続けてきたが、話す中身はいつのまにかインバウンドのことばかりになっていた。

    5人の登壇者が並ぶ壇上で、左端でマイクを持ち進行する代表
    WAOJEの講演セミナー 2018 のパネルディスカッションにて。
  5. 20198月

    台北経済新聞の運営を開始

    台北のローカル情報を日本語で発信するメディアを運営開始。もっと台湾を日本人に知ってもらいたいと思った。

  6. 決めるのは、いつも現場の話から

    媒体の選び方も、投稿に使う言葉も、台北のチームで話しながら決めている。日本人と台湾人の混合チーム。日本側の思い込みは、たいていこの場で潰れる。

    ノートパソコンを広げた机を囲み、3人が笑いながら打ち合わせをしている
    台北オフィスでの打ち合わせ。
  7. 観光庁のインバウンド領域の専門家に任命

    2023年まで務めた。

  8. 目で見て、その場で体験して学んでいった

    台湾人が何を思うか、値段の感覚、意思決定の瞬間。現地に住んで体験しないと、分からないことが多い。今も昔も、やっていることはあまり変わっていない。

    台北の朝市の雑踏。買い物客に囲まれて立つ代表
    台北の朝市にて。写り込んだ方の顔はぼかしています。
  9. 2020

    台湾のテレビ「ビックリ台湾」に出演

    日本を紹介する台湾の番組に、「日本旅行の達人」という肩書きで。日本の魅力をたくさん話せて、楽しかった。

  10. 幕張メッセのメインステージで話す

    「インバウンドEXPO2020」で講演。満席の会場に向けて、台湾市場の話をした。この数週間後に国境が閉じることは、まだ誰も知らない。

    幕張メッセのセミナー会場。満席の聴衆を前に、壇上で講演する代表
    インバウンドEXPO2020 メインステージにて。
04

止まった年

国境が閉じ、売上の7割が消えた。

元々この章のことは、あまり具体的に書きたくありませんでしたが、それでも書くことにしたのは、この時期に起きたことを、私ひとりの話にしたくなかったからです。それでもやり続けることができたのは、周りにいたみんなのおかげでした。

  1. 2020後半

    台湾で、シングルファザーになった42歳

    その年、妻の病気が分かった。半年の闘病に付き添い、コロナで仕事も止まっていくなかで、私に仕事へ向き合う余裕はなかった。そのまま妻を見送り、そこからは娘の世話も加わった。代わりに会社を動かし続けてくれたのは、会社のメンバーだった。

    「社長がいなくても、なんとかしよう」。誰からともなく生まれたその想いに、何度も救われました。
    海辺の砂の上でしゃがみ、うつむいて笑っている幼い子ども
  2. KKdayと業務提携

    アジア最大級のOTAサービス。日本商品の越境ECを、ここから始めた。

  3. 2021

    売上の約7割が消えた

    コロナで各国が国境を閉じ、日本と台湾を結ぶ旅客便はほぼ全便が止まったままだった。前年から続いた渡航制限の影響が、この年に本格化する。人が動かなければ、お金も動かない。観光が止まった以上、契約の大半が打ち切られるのは避けようがなかった。

  4. それでも、人は切らなかった

    前年に始めた越境ECの支援など、新規事業を広げてそちらで利益を取る方向に舵を切った。結果として、ひとりも欠けることなくコロナを越えた。

    とにかく人は切りたくなかった。
    マスクをした5人のメンバーが、街なかで買い物袋を提げて並んでいる
    コロナ下の台北にて。
  5. 日本テレビ「ニュースZERO」に出演

    コロナ全盛期に、台湾からのリポーターという立場で二度。現地の感染状況と、街がどうなっているかを伝えた。

  6. 202212月

    読売テレビ「かんさい情報ネット ten.」に出演

    台湾有事をテーマにした特集。アナウンサーが台湾まで取材に来た回だった。

  7. 2年半ぶりに、国境が開く

    約2年半、全く台湾から出られなかった。日本に着いた瞬間さまざまな思いが溢れ出て、空港で涙した。

    空港の待合で、検査結果を知らせる電光掲示板の前に座る人
    入国の検査結果を待つ空港の待合にて。
05

いま

もう一度、ここから。

数字を並べることもできますが、最後に書きたいのはそれではありません。様々な出来事を経験し、働き方について決めたことが一つありました。

  1. 2025

    10年前と同じ場所で、撮った

    2015年に撮ったのと同じ、緑の扉の前。コロナを越えて、ここからまた始める。

    瓦屋根と緑の扉の古い家屋の前に、5人のメンバーが並んでいる
    10年前と同じ、台北・四四南村で。
  2. 2026

    台北・東京・京都の3拠点

    累積の提携KOLは450名超、インバウンド支援は1,200件以上。日本人と台湾人の混合チームで、調査から実行までを台北で担っている。

  3. これから

    公私混同、むしろ推奨

    仕事に夢中になる日もあれば、娘のプリキュアごっこに全力で付き合う日もある。どちらも、ちゃんと大切にする。「仕事か、私生活か」なんて選ばずに、両方まとめて抱きしめてほしい。仕事もプライベートも、どちらも諦めなくていい。

    渡台前の自分に一言だけ伝えられるなら——大丈夫、失敗を恐れるな。
    ノートパソコンの前で笑う代表

ここまで読んでいただいて、ありがとうございました。

うまくいかなかった話ばかりになりましたが、失敗した数のぶんだけ、台湾で試したことがあります。台湾のことで迷っていることがあれば、いつでも聞いてください。まだ何も決まっていない段階でも構いません。

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